تسجيل الدخول八重樫一晟は冷ややかな笑みを浮かべて私たちを見ると言う。「これはこれは。高嶺総帥。そんなラフな格好でいらっしゃったので、気付きませんでしたよ」確かに今の遼大は洗いざらしのシャツの上に、賀神さんが掛けてくれたジャケットを羽織っている。多少ちぐはぐな印象はしても、言うほど、おかしな格好では無い。八重樫一晟は不敵な笑みを浮かべたまま、不意に後ろを振り返る。リムジンに乗っていたのは八重樫一晟だけでは無かった。続いて降りて来た人物はおかしな格好をしていた。真っ白な白衣を着ている。髪は驚くほどに白く、それなのに顔は若々しい。「千堂弘……」遼大がそう呟くのが聞こえた。「千堂? あの、千堂?」私はそう遼大に問いながらも、白髪の青年に目を向ける。どう見てもまだ若い。それなのに白髪……その奇抜な容姿が目を引く。「千堂彰の異母弟だ。義理の兄の千堂彰が当局に拘束され、千堂家を実質的に支配しているのがあの男だ」遼大が小さな声でそう言う。千堂彰に異母弟が居たなんて。千堂弘はその無表情で八重樫一晟に聞く。「検体は?」(検体? 一体、何の話をしているの?)八重樫一晟は肩をすくめて千堂弘に言う。「本当に君という男は……」ほとんど呆れたようにそう言い、聖カトリーナの中を指差す。「まだ中に居る」それを聞き、歩き出そうとする千堂弘を制し、八重樫一晟が言う。「まだだ」そう言って八重樫一晟が私たちを見る。「高嶺総帥、私たちはこれで失礼しますね」そう言って一歩踏み出し、思い出したように言う。「あぁ、そうだ」そう言って私たちを振り返り、不敵に笑う。「腕の傷、お大事に」そう言って歩き出して行ってしまう。「高嶺」賀神さんが遼大に声を掛ける。遼大は歩き去って行く八重樫一晟を見ながら言う。「あぁ、分かっている。だが引き留める理由が無い」そう言って遼大は八重樫一晟の後姿を睨みつける。「とりあえず、一旦、ホテルに戻ろう」遼大はそう言って、湊を見る。「湊くんは聖カトリーナに留まってくれるか?」そう言って遼大が耳を指差す。「事情はリアルタイムで聞けるよう、イヤフォンを」湊が頷き、聖カトリーナに入って行った八重樫一晟と千堂弘を見ながら言う。「分かりました、俺もあの二人が聖カトリーナに来て何を仕出かすのか、ちゃんとこの目で見ておきたいですね。聖カトリー
セキュリティー棟を出て歩きながら、考える。これで愛沢くるみの悪意が初めて確固たるものとなって、俺の目の前に現れた。今までは実際の実行犯は他に居て、愛沢くるみが実際に直接手を下す、なんて事は無かったのだ。それが今回、愛沢くるみ本人が悪意を持って燈の背を押したという映像を手に入れる事が出来た。これは大きな成果だろう。聖カトリーナの病棟の方へ戻ると、視界に見慣れた三人組が入って来る。高嶺さんと燈と賀神さんだ……そう思った時、もう一人、居る事に気付く。愛沢くるみだ。(燈たちに話しかけている……?)そう思いながら俺はその光景を見ていた。愛沢くるみと高嶺さん、燈の間に、遮るように賀神さんが立ち、愛沢くるみに背を向けて、俺の居る聖カトリーナの入り口の方へ促している。(一体、愛沢くるみは何が目的なんだ?)燈の背中を押して、刃の方へ押し出したくせに、その事をしらばっくれて、俺に嘘をついた女。更に俺のオフィスに勝手に入り込み、何か探るような素振りを見せ、金の無心までも図々しくしようとした……こうして改めて見直すと、今まで俺はどれだけ曇った目で愛沢くるみを見ていたんだろうかと思う。どうせどこにも逃げる場所なんて無い。愛沢くるみの最大のパトロンであった千堂彰は当局に拘束されているし、チマチマと金を巻き上げていた実弟の波多野優斗は新田豊によって助け出され、俺たちの側へ来ている。俺自身は愛沢くるみの財布にはならないし、森崎家は愛沢くるみから距離を取っている状況だ。つまり、誰も愛沢くるみの味方は居ない事になる。包囲網が愛沢くるみを追い詰めている、その手応えがあった ―― その時までは。◇◇◇賀神さんに促されるように私と遼大が歩き出す。愛沢くるみはそんな私たちを恨めしそうな目で見ている。この状況で、以前のように可憐な自分を装っても、誰も相手にしない事は愛沢くるみも分かっているのか、ただただ私たちを見ているだけだった。(スマートな引導の渡し方をするのね)私は賀神さんを見てそう思う。歩き出した時、不意に遼大のスマホが鳴る。遼大がスマホを取り出し、画面を私に見せる。「乙藤のお爺様からだ」そう言って遼大が電話に出る。そう言えば乙藤のお爺様が本宮啓二を足止めしてくれているんだっけ、そんなふうに思っていた私は遼大の話し声を聞いて、少し戸惑った。遼大の声のトーンが低い。「
「高嶺!」そう言ってERに駆け込んで来たのは賀神さんだった。「賀神」遼大はそう言って、立ち上がる。遼大の腕を見て、賀神さんは痛そうに顔を歪める。「怪我をしたと聞いたが……」そう言って遼大の腕に巻かれている包帯を見る。「あぁ、問題無い。大丈夫だ」そう言って遼大が笑う。「一体、何でこんな事に」賀神さんがそう聞く。遼大は私を見て微笑み、そして言う。「全ては燈が優秀で有能だから、だな」そう言われて私は苦笑する。「聖カトリーナで今、ER部長をやっている新見悟が、自身の罪を暴かれた事で血迷ったのよ」私がそう説明すると、賀神さんが苦笑する。「それで刃傷沙汰か」賀神さんは遼大に聞く。「大丈夫なのか?」心配そうにそう聞く賀神さんは、本当に遼大とは良い関係なのだなと思う。「あぁ、燈がすぐに縫合してくれたからな。言うほど、血も流れていない」処置の為に切ったシャツが痛々しい。「とにかく一度、着替えに戻らないと」遼大がそう言う。賀神さんが来ていたスーツのジャケットを脱いで、遼大の肩に掛ける。「あぁ、悪いな」遼大がそう言うと賀神さんが笑う。「気にするな」そんな二人のやり取りを見ていると、本当に二人の信頼関係が良く分かる。◇◇◇ERを出ると、少し離れた場所に愛沢くるみが立っていた。愛沢くるみは私たち三人を見ると、すぐさま駆け寄って来る。(面倒な事になりそうね)私はそう思いながら遼大を見る。遼大も私を見て苦笑する。「燈ちゃん! 高嶺さん!」そう言いながら駆け寄って来た愛沢くるみは、私を見て、次に怪我をしている遼大を見る。「大丈夫?」あの騒ぎの最中に、愛沢くるみが居なかったとは思えない。白々しくそう聞く愛沢くるみに私は無表情で言う。「悪いけれど、あなたに構っている暇は無いの」そう言うと愛沢くるみは見事にウルウルと瞳を潤ませる。「心配で待っていたのに……」待たれる理由が無かった。私たちと愛沢くるみは友人同士でも何でも無いのだから。「失礼、あなたは?」賀神さんが私たちの間に割って入る。賀神さんを見た瞬間、愛沢くるみの何かのスイッチが作動したのが分かった。賀神さんを見て、愛沢くるみの何らかのセンサーが動いたのだろう。その瞳はパッと輝きを増す。「あの、私は燈ちゃんの友人の愛沢くるみです」傲慢にもそう自己紹介をする愛沢くるみに
「これって湊が私たちに音声を聞かせているって事よね?」そう聞くと遼大が自分のスマホを見ながら言う。「前に湊くんに渡してあった、ペン型の通信装置からだな」そう言えば前に愛沢くるみが久遠家の屋敷に何の前触れもなく来た事があって、その時に遼大が湊に何かあった時の為に、と湊にペン型の通信装置を渡してあったのを思い出した。『あぁ、その件か』湊の声がそう言う。湊の息遣いまで聞こえて来そうな程、高性能のマイクが音声を拾っている。『ついさっき、ERで起きた騒ぎを知っているだろう? あれを収めなければならない。主犯の男は警察に引き渡すとしても、原因の究明はしないといけないからな』湊が努めて冷静にそう言うのが聞こえる。『だから今は、悪いが空いている時間が無いんだよ』そう言われた愛沢くるみは何と返すんだろうか、そう思っていると、愛沢くるみの声が聞こえて来る。『でも私の方もそんなに時間の猶予は無いの』まぁ、愛沢くるみからしたら、波多野優斗を人質に取られている状況で、お金を渡さないと警察に行くとまで言われているのだから、確かに時間の猶予は無い気がしているだろう。愛沢くるみを脅している新田豊は波多野優斗と一緒に今、聖カトリーナに居て、治療を受けているだなんて思いもしないだろう。いや、新田豊が搬送された事を分かっているのだから、愛沢くるみが冷静なら、湊に会いに来るのでは無く、まさしく新田豊が何故、搬送されたのかを調べるべきだったのだ。(お金が欲しいの? それとも自由?)今の愛沢くるみの状況は思わしくは無い。森崎家の当主であり、遼大の実父である森崎健太郎はおそらく愛沢くるみに資金を渡していない。今までは森崎家夫人である望美さんを味方に付けていたから、森崎家の財産をある程度は動かせただろうけれど、今はそうじゃないだろう。そうだとしたら今の愛沢くるみの資金の出どころは、自分自身という事になる。今まで自分の身で稼いで来た資金がどこまで愛沢くるみに残っているかは分からないけれど、あの愛沢くるみの事だ、それ程、多くは無いだろう。パトロンだった千堂彰を失い、レーザー治療のせいでサロン・ド・オーキッドへ行く事も出来ず、八方塞がりの状況の中、やはり縋ったのは湊だった。(それはそうよね、厚顔無恥にも私にお金の無心をしに来たくらいだもの)大きな溜息が聞こえて来る。湊がついた溜息だ
私は一瞬、あっけに取られていたけれど、すぐに背を伸ばし、言う。「あの、違うの……湊さん、最近、全然会ってくれなくなっちゃって……それで、少しでも湊さんを感じたくて……」目の前のPCは無情にもパスワードが違いますというメッセージの入った画面のままだ。これを見られたら私が湊のPCを無断で覗こうとしたことがバレてしまう。静かにそっとPCに手を伸ばし、モニターの電源を切る。湊は私を見て、冷たい視線を送って来る。(本当にどうしちゃったと言うのよ)それまでの湊なら私が湊に許可を得ず、勝手にオフィスに入って来ても、笑顔で迎えてくれたのに。「前にも言った筈だ。ここはくるみ、君が好き勝手に歩いて良い場所じゃないと」湊が冷たくそう言い放つ。確かに以前、湊には聖カトリーナを好き勝手に歩くなと言われた。もう好き勝手歩ける場所じゃないと、そう言われたのだ。「ごめんなさい……」しおらしくそう言い、私は椅子から立ち上がる。湊は入り口で仁王立ちになり、腕を組んでいる。「それで? どうしてここへ?」そう聞かれて私は湊を上目遣いで見て言う。「会議に行かなくちゃいけないって言われて、それで、少しでも湊さんの事を知りたくて……だって最近、湊さん、全然会ってくれないから……」そう言うと湊は表情一つ変えずに言う。「忙しいんだと言った筈だ。俺は聖カトリーナの理事で、脳外の専門医で、抱えている患者だって多いんだ」そう言われてしまうと反論の余地が無い。だって私は医者の仕事なんてこれっぽっちも分からないのだから。◇◇◇目の前の愛沢くるみを観察する。どうすべきか、さっきの現場に居た事を確認するべきか?それとも何も知らない素振りでこの場に留め置くべきか。愛沢くるみのその手が静かに動いた。PCのモニターの電源を切ったようだ。つまり、俺のPCを覗こうとしていた、という事だろう。パスワードの変更をしておいて良かった。万が一にも、PCを覗かれる事の無いように、パスワードの変更は実は随分前にしてあった。以前の俺なら愛沢くるみが勝手に俺のオフィスに入って来ても、気にも留めなかっただろう。むしろ俺に会いに来てくれた事を嬉しく感じていたのだ。その当時はPCなど覗かれても愛沢くるみは内容を理解は出来なかっただろうし、そんな事しか院内のPCには入っていなかったが。今は違う。今はそのPCで加
混乱の最中、俺は確実に見た。燈が背を押し出され、前に飛び出したその時、燈を押したその手の主を。愛沢くるみだった。愛沢くるみがその場にいたのは偶然だろう。俺に会いに来ていたのだから、その後、院内を歩いていても何の不思議も無い。おそらくは俺に話を聞いてもらえなかった事で、俺の周囲を探ろうとでもしていたのだろう。もしかしたら俺の個人オフィスに入り込もうとしていたのかもしれない。押された燈を庇ったのは高嶺さんだった。俺も手を伸ばそうとしたけれど、目の前の看護師が俺の方へ押し出されたのを見て、思わずその看護師を受け止めたのだ。俺の隣で警備員が刃物を持った新見悟を捕らえようと動き出していた。全てがあっという間の出来事だった。燈に縫合の処置を受けている高嶺さんを見て、俺は安堵した。燈が自ら縫合するなら大丈夫だ。俺は目の前の新見悟を見下ろし、嫌悪した。そしてこうも思ったのだ。俺ももしかしたら、こうなっていたのかもしれない、と。五年前、俺は確実に燈を嫌悪していた。それは愛沢くるみによる印象操作だったとしても、だ。「警察に引き渡せ」俺はそう言い捨てて、高嶺さんの元へ行く。「大丈夫ですか?」そう聞くと高嶺さんはその腕に燈を抱き寄せながら微笑む。「あぁ、問題無い」燈は高嶺さんの胸に顔を埋めて泣いているようだった。その様子を見て俺は微笑み、そしてその場のカーテンを引き、二人を周囲から隔絶する。俺は俺でやれる事をやる。今回のレベル4の騒ぎを納めなければならないのと。愛沢くるみを追わなければ。◇◇◇「レベル4!?」俺はそれを聞いて、思わず大きな声が出てしまった。「それで、高嶺さんと佐伯顧問は?」俺がそう聞くと高嶺さんの部下が言う。「総帥が怪我を」そう言われて俺はその場にいた全員に言う。「悪いが、外す」そう言ってEMSOの分析室を出る。佐伯顧問が分析してくれていたレプリトールディザスターの構造式を皆に説明していたところだったのだ。この分析結果を元に、レプリトールディザスターの中和を進めるつもりだった。「賀神さん!」声を掛けられ、振り向くと真壁早妃が走って来る。「高嶺さんは?」そう聞かれて俺は言う。「それを今から確認しに行く」真壁早妃もその顔に焦りを見せている。おそらくは高嶺が怪我をしたと耳にしたんだろう。「君も高嶺の様子が気にな







